〔2015.12.06〕 第25回 お江戸散策渋谷・恵比寿界隈を選びました。渋谷は地形的にも坂が多く、渋谷駅の辺りが低地になっているのがわかる。この低地の所には、新宿御苑の辺りを水源とした渋谷川が流れているのである。街を歩いても川は暗渠になっているのでわからないが、渋谷警察署付近で開渠しているので確認できる。川は、その先目黒川に合流して東京湾に注いでいく。この辺りをつぶさに見ると大変興味深い。渋谷警察署の南方面を歩むと、渋谷を代表する古社 金王八幡宮がある。平安時代中期頃、源氏配下の渋谷基家が、この丘陵に城を築き、支配していた。渋谷の名はここから呼称されるようになったという。金王八幡宮の東側に隣接して寺がある。八幡宮の別当寺であった天台宗東福寺で、かって八幡宮の上位にあったが、明治に入って発布された神仏分離令に端を発した廃仏毀釈により立場が逆転してしまいその存在も影のようになっている。寺院から南方へ数分歩いたところに、渋谷氷川神社がある。埼玉県大宮市にある武蔵一の宮氷川大社の分社で、都内に数か所ある氷川神社の1つであるが、境内は広く、参道も長く引かれていて、多くの参詣者を集めていると云う。(つづく)
金王八幡宮
 
東福寺
氷川神社
 氷川神社を出て道路を隔てたところに国学院大学がある。神職養成や国学普及などを大学の事業目的にしており、構内には神社も設置されている。大学の東側に臨済宗吸江寺がある。同志社大学を創設した新島襄を輩出した安中藩板倉家の菩提寺である。ここから広尾方面に向かう。正面ガラス張りで十数階建ての大きなビルディングの日本赤十字社医療センターが進行正面に見えてきた。 この赤十字社は西南戦争の折り新政府の重鎮 佐野常民と大給恒(おぎゅうゆずる)が尽力して、博愛精神の基に設立された病院で、当初、敵方の兵士を看護することに反対意見が多かったが、有栖川熾仁親王が負傷者に、「敵も味方もない」と英断して設立されたのである。医療センターに隣接しての入母屋造りの門が見える。聖心女子大学の正門である。この聖心女子大からは香淳皇后、美智子妃殿下と2代続けて天皇の后を輩出している。麻布台の方向に歩み続けると、区民の憩いの庭園、有栖川宮記念公園に辿り着いた。この公園は有栖川宮威仁親王の住居であったが、後に高松宮殿下の屋敷となってから東京市に賜与されて公園になったもので、日本庭園の情緒に加え静寂な世界を味わえる都内屈指の公園になっている。江戸期は、盛岡南部藩の下屋敷が置かれていた所でもある。ランチタイムになり、広尾駅周辺のレストランに分散して昼食を取ることにした。(つづく)
國學院大学構内
 吸江寺 日本赤十字病院 
聖心女子大学
有栖川宮記念公園
  祥雲寺の山門前に集合して、午後の散策をスタートした。午後の最初は、祥雲寺の塔頭香林院。日本赤十字社の設立に尽力した大給松平家の菩提寺である。東京は戦災で多くの茶室が失われたが、当院の茶室は被災を免れて現存している。祥雲寺には多くの大名家の墓が現存しており、筑前黒田藩の菩提寺でもある。初代藩主黒田長政の墓が現存して残されていて、東京都の史跡にもなっている。ここから恵比寿方面に向かい、臨済宗東北寺(とうぼくじ)に向かう。当院も、2,3の大名家が菩提寺としていて格式を感じるが、日本橋にあった白木屋の創業者一族の墓とその従業員の墓もある。墓には、火災で亡くなった従業員の墓も一族に列して安置されており、白木屋が如何に従業員を大事に扱ってきたか、会社の精神を読みとることができる。恵比寿に近づき渋谷橋の交差点にやって来た。その一角に、モダン建築の寺院がある。曹洞宗で仏教行事や布教教化などの説法道場を有する寺格を誇る福昌寺である、当院には門前に、貴重な文化財で、関東には稀な古墳の石棺仏が置かれている。続いて、本日最後の散策地、恵比寿神社に向かう。この神社は小粒ながら、商売繁盛、縁結びに大変ご利益があるとかで、多くの参詣者を集めているという。われわれが参詣中にもお参りに来た婦人がいて、呼び止めて伺ったところ、「数十年お参りに来ていておかげで家庭円満、商売順調」と嬉しそうに語るご婦人が印象に残った。恵比寿駅の名称はこの神社に由来すると聞いていたが、これは間違いで、恵比寿ビールに起因しているとのことである。 このあと恒例の懇親会に進み、和気藹藹に通飲し、早めに引き上げて散会とした。 (報告・石井義文) (解説)
香林院
祥雲寺
東北寺
福昌寺
庚申橋供養碑
恵比寿神社
懇親会
イルミネーション ページェント 
中目黒駅へ向かう途中、目黒川沿いには、幻想的なイルミネーションページェントが寒空に輝いていました。
川の沿道には多くの見物客が集まり、LEDが作り出す魅惑の芸術に堪能して酔いしれていました。